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先生
師匠シリーズ
幻想
2015年12月21日 16:46:11コメント:0観覧数:4758

先生 (1/10)

512 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 22:58:57 YUHlb2rI0

師匠から聞いた話だ。

長い髪が窓辺で揺れている。
蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとか、
そういうざわざわしたものをたくさん含んだ風が、先生の頬をくすぐって吹き抜けて行く。
先生の瞳はまっすぐ窓の外を見つめている。
僕はなんだか落ち着かなくて鉛筆を咥える。
こんなに暑いのに先生の横顔は涼しげだ。
僕は喉元に滴ってきた汗を指で拭う。
じわじわじわじわと蝉が鳴いている。
乾いた木の香りのする昼下がりの教室に、僕と先生だけがいる。
小さな黒板にはチョークの文字が眩しく輝いている。三角形の中に四角形があり、その中にまた三角形がある。
長さが分かっている辺もあるし、分かっていない辺もある。
先生の描く線はスッと伸びて、クッと曲がって、サッと止まっている。
おもわずなぞりたくなるくらいの綺麗な線だ。
それからセンチメートルのmの字のお尻がキュッと上がって、実にカッコいい形をしている。
三角形の中の四角形の中の三角形の面積を求めなさい、と言われているのに、そんなことがとても気になる。
それだけのことなのに、本当にカッコいいのだ。
mのお尻に小さな2をくっつけるのがもったいない、と思ってしまうくらい。
「できたの」
その声にハッと我に返る。
「楽勝」
僕は慌てて鉛筆を動かす。
「と、思う」と付け加える。
先生は一瞬こっちを見て、少し笑って、それからまた窓の外に向き直った。
背中の剥げかけた椅子に腰掛けたままで。
僕は小さな机に目を落としているけれど、それがわかる。
また、蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとかが風と一緒に吹いてきて、
先生の長い髪がさらさらと揺れたことも。
白い服がキラキラ輝いたことも。
二人しかいない教室は時間が止まったみたいで。
僕はその中にいる限り、夏がいつか通り過ぎるものだなんてことを、なかなか思い出せずにいるのだった。


513 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:01:03 YUHlb2rI0

小学校六年生の夏だった。夏休みに入るなり、僕は親戚の家に預けられることになった。
その母方の田舎は、電車をいくつも乗り継いでやっとたどり着く遠方にあった。
小さいころに一度か二度連れてこられたことはあったけれど、一人で行かされるのは初めてだったし、
『夏休みが終わるまで帰ってこなくて良い』と言われたのも、当然初めてのことだった。
厄介払いされたのは分かっていたし、
一人で切符を買うことや道の訊き方について、それほど困らないだけの経験を積んでいた僕は、
むしろ『帰ってこなくて良い』の前に、『夏休みが終わるまで』がくっついていたことの方に安堵していた。

田んぼに囲まれた畦道を、スニーカーを土埃まみれにしながらてくてく歩いていくと、
大きなイブキの木が一本垣根から突き出て、葉を生い茂らせている家が見えてきた。
この地方独特の赤茶色の屋根瓦が陽の光を反射して、僕は目を細める。
その家には、おじさんとおばさんとじいちゃんとばあちゃんと、それからシゲちゃんとヨッちゃんがいた。
おじさんもおばさんも、親戚の子どもである僕にずいぶん優しくしてくれて、
「うちの子になるか」なんて冗談も言ったりして、二人とも農作業で真っ黒に日焼けした顔を並べて笑った。
じいちゃんは、頭は白髪だったけど足腰はピンとしていて、背が高くて、
ガハハと言って僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でたりして、それが痛かったり恥ずかしかったりするので、
僕はその手から逃げ回るようになった。
ばあちゃんは、小さな体にチョンと夏みかんが乗ってるような可愛らしい頭をしていて、
なにかを持ち上げたり布巾を絞ったりする時に、「エッへ」と言って気合を入れるので、
それがとても面白く、こっそり真似をしていたら本人に見つかって、
怒られるかと思ったけれど、ばあちゃんは「エッヘ」と言って本物を見せてくれたので、
僕はあっというまに好きになってしまった。


514 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:03:29 YUHlb2rI0

シゲちゃんは名前をシゲルと言って、僕と同い年の男の子で、
昔もっと僕が小さかったころにこの家に遊びにきた時、僕を子分にしたことを覚えていて、
僕はさっぱり覚えていなかったけれど、まあいいやと思ったので子分になってやった。
ヨッちゃんは名前をヨシコと言って、シゲちゃんの二つ年下の妹で、目がくりくりと大きく、オカッパ頭の元気な女の子で、
僕の顔や服の裾から出ている体の色が白いのを見て、トカイもんはヒョロヒョロだと言って馬鹿にするので、
そうではないことを証明するのに、泥だらけになって日が暮れるまで追いかけっこをする羽目になった。

トカイもん。
田舎にきてまず感じたのが、この言葉のむずむずする肌触り。
僕にはけっしてトカイの子などという認識はなかったのであるが、この小さな村の子どもたちからすると、
テレビのチャンネルがNHKのほかに三つ以上映るというだけで、それは十分トカイの条件を満たしてしまうようだった。
シゲちゃんはそのトカイもんを、さっそく地元のワルガキ仲間に引き合わせてくれたので、
とにかく毎日ヘトヘトになるまで僕らは一緒に駆け回り、泳ぎ回り、投げ回り、逃げ回った。
小学生最後の夏休みなのだ。アタマが吹っ飛ぶくらい遊ぶのは、子どもの義務なのである。
タカちゃんやらトシボウやらタロちゃんなんかと仲良くなった僕は、
どいつもこいつも揃って足が速いこと、
そしてまた、並べてフライパンで焼いたように色が黒いことに、いたく感心した。
なるほど。『トカイもん』と自分たちを区別したくなるのも分かる気がする。
僕の周囲にいた子どもたちとは少し違っている。
朝早くから虫カゴと網を持って山に入ったかと思うと、ヒグラシが鳴きやむまで下界に下りてこず、
いざ帰ってきた時には、手作りの大きな虫カゴが満タンになっているのだけれど、
その夜それぞれの親に、早く家に帰らなかったことについてコッテリ絞られた後だというのに、
次の日には、また颯爽と朝早くから虫カゴと網とを持って山に駆け上って行く、という具合だ。


515 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:06:05 YUHlb2rI0

その中でも、シゲちゃんはとびきりのやんちゃ坊主で、それになかなかの親分肌だった。
いばりんぼで喧嘩っ早かったけれど、
子分のピンチには一番に駆けつけて「ヤイヤイ」と凄んだり、
「にげろ」だとか「とにかくにげろ」だとかといった的確な指示を出して、僕らを窮地から救い出してくれたりした。
背丈は僕と同じくらいだったけれど、ギュウギュウに絞った雑巾のような筋肉が全身に張り付いていて、
その足が全力で地面を蹴った時には、大きな水溜りをらくらくと跳び越し、
あとから跳んだ僕らの足が水溜りの端っこでドロ水を撥ねるのを、振り返りながら鼻で笑ったものだった。
ただ、そんなシゲちゃんの親分っぷりの中にも、
生来のイタズラ好きが首をもたげてくると、僕らはその奇抜さ、迷惑さに閉口した。
山で見つけた変なキノコを、「キノコの毒は火を通せば大丈夫」などと言って、うっかり信じたトシボウに食べさせた時など、
腹を抱えて昏倒したあげくに、医者に担ぎこむ騒ぎになったし、
落とし穴づくりに関しては、それはそれは恐ろしい『穴の中身』を用意することで知られていた。

ある時は裏山の竹ヤブに僕らを集め、なにをするのかと思っていると、
シゲちゃんは「あ、人が落ちそう」と、崖の方を指さして叫んだ。
見ると、確かに誰かが竹ヤブの端っこから落ちそうになって、竹の子に毛が生えたような細い竹にしがみついている。
それは今にもポキリと折れそうに見えた。
わあわあ言いながら慌てて駆け寄ると、なんとそれは藁と布で出来た人形で、
シゲちゃんに一杯食わされた僕らは怒ったり、あんまりその人形が良くできていたので感心したりしていたけれど、
間の悪いことに、山菜を採りにきていた近所のおばさんが、そのシゲちゃんの「人が落ちそう」を耳にして、
遠くから僕ら以上に慌てて人形に駆け寄ってきたものだから、
途中で竹の根っこに躓いてスッテンコロリンと転がり、あやうく崖から落っこちるところだった。
僕らはそのおばさんに叱られ、それぞれの家でしかられ、とにかくさんざん絞られたのであるが、
シゲちゃんはさらに人形の出来が良すぎたせいで、カカシの作成をじいちゃんに命じられ、
家の田んぼと畑のカカシを全部作り直させられていた。


516 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:09:22 YUHlb2rI0

そのあいだシゲちゃんは遊びにも行けずに、うなだれながらカカシをせっせと作っていたのだけれど、
その目の奥には、次のイタズラを考えている光がぴかりと点っていて、
僕らにはそれが、頼もしかったり迷惑だったりしたものだった。

田舎の暮らしにもすっかり慣れて、シゲちゃんたちほどではないけれど、僕の身体にも日焼けが目立ち始めたある日、
「鎮守の森へ行こう」というお誘いがかかった。
鎮守の森は、北の山の峰に沿ってズンズン分け入った奥にある。
高い山に囲まれているせいで、太陽が東や西よりにある時間そのあたりは昼間でも暗くて、
真上に昇っている時でも、生い茂るクスノキやヒノキの枝や葉っぱで光が遮られ、
その森の底を歩く僕らには、ほんのかけらしか零れてこない。
それだから、シゲちゃんとタロちゃんの後を追いかけて、
ようやく鎮守の森の真ん中に佇む神社を見つけた時には、なんだか厳粛な気持ちになっていた。
今まで太陽の熱が暴れ回る場所で遊んでいたのに、
ここは黒い土に地面が覆われ、空気はしっとりしていて、身体の中から冷えていくような感じがする。
それまでに登ったほかの山や森ともどこか違う。
「カンバツもほとんどしとらんから」と、シゲちゃんは言った。
そのころはカンバツというのがなんなのか良く分からなかったけれど、
きっとそれをしないのは、ここが鎮守の森だからなのだろうというのは理解できた。
ひっそりと静まり返った参道を通って、
(後から思い出すと、蝉がうるさいくらいに鳴いていたはずだったのに、確かにその時はそう思ったのだった)
ちんまりした神社の本殿にたどり着く。
光も影も斜めに屋根や板壁に走り、それがずっと何百年も昔からそこにそうやって張り付いているような気がする。
時どきサラサラと葉っぱの形に揺れて、そんな時にようやく僕は時間の感覚を取り戻した。
チャリン
と音がしてそちらを向くと、賽銭箱の前にシゲちゃんが立っている。
ボロボロで苔が生えていて、誰かがお賽銭を回収しているのかどうかもちょっと怪しい。


517 :先生 前編  ◆oJUBn2VTGE:2009/08/21(金) 23:12:28 YUHlb2rI0

実は江戸時代くらいからのお賽銭がゴッソリと溜まっているんじゃないかと覗いてみたけれど、
暗くて良く分からず、それでもゴッソリと溜まってる感じでもなかったので、
どうやらここへ参拝にくる人自体がめったにいないんだろうと僕は考えた。
そして、ズボンのポケットから十円玉を取り出して投げ入れる。
その神社に何の神様が奉られているのか誰も知らなかったけれど、
チリンというとても良い音がしたので、僕はその音に手を合わせた。
やがて「もう帰ろうぜ」とタロちゃんが言って、境内から出たがり始める。
心なしか内股でもじもじしている。どうもおしっこを催してきたらしい。
口ばかり達者なくせに恐がり屋な面があるタロちゃんは、
この鎮守の森の奥深くに眠る神社の聖域を、おしっこなんかで汚してしまうことに畏れを感じているようだった。
ようするにビビッてたワケだ。
僕とシゲちゃんはタロちゃんを苛めることよりも、その場を離れることを選んだ。
僕らも僕らなりに、その森になにか近寄りがたいものを感じていたのかも知れない。

クスノキが枝葉を手のように伸ばす薄暗い参道を抜け、また黒土の山道に出る。
気が焦っているタロちゃんが、「あれ、どっちだっけ」とキョロキョロしていると、
シゲちゃんが「こっち」と、元きた道の方を正しく指さした。
僕はふと、反対方向へ抜けるもうひとつの道に目をやった。
道はすぐに折れ、木立の群に飲み込まれてその先は見えない。この道の先はどこに通じているのだろう。
むくむくと好奇心がわき上がってくる。
「こっちはなにがあるの」
そう聞くと、シゲちゃんは「なんにもないよ」と言って、さっさと元の道を戻り始めた。
僕はその奥へ行ってみたい誘惑に駆られたけれど、
ひとりで鎮守の森に残される心細さがじわじわと胸に迫ってきて、その場に立ちすくんでしまった。
そうしていると、いきなりバサバサと頭の上の木のてっぺんあたりから大きなものが飛び立つような音と気配がして、
思わず見上げると、
その瞬間に覆い被さるような木の枝や葉っぱやそこから零れる光の繊維が、
先生 (1/10) |先生 (2/10)先生 (3/10)先生 (4/10)先生 (5/10)先生 (6/10)先生 (7/10)先生 (8/10)先生 (9/10)先生 (10/10)
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